当日本人拍的中日战争片时与日本对抗的人

日本人所了解的中日战争(1)_外国人眼中的中国吧_百度贴吧
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日本人所了解的中日战争(1)
首先需要说明,这篇文章只代表日本人众多观点的一种,决不是普遍性的看法。不过,虽然不是普遍性的看法,却具有某种程度的代表性。用“日中战争”在日文雅虎搜索,这一篇出现在第二项,第一项是。记得天龙八部里有一句台词,叫做“强词夺理,居然也能自圆其说。”我希望通过翻译这一篇,能让更多人了解某些日本网民的历史观和世界观是怎样形成的。翻译本文,不代表本人支持其中任何观点。这一点我不能强调更多。最后,译文中黑体为原文所加。另外本文作者为基督教传教士,其背景对行文有所影响。沙发 夜炎火 只看他
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愤青勿看哦
日中戦争の真実 日中战争的真相日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとしたローマ法王も、日本の行动を支持していた日本、试图拯救终日内战的中国罗马教皇也支持了日本的行动日本兵らと游ぶ中国人児童ら(1937年)日本兵たちは中国の民众からは温かく迎えられていた。与日本兵玩耍的中国儿童们(1937年)日本士兵们受到了中国民众温暖的欢迎。前项「中国の『正しい歴史认识』の正体」では、「夷(い 外国)をもって夷を制す」の中国政治家の考え方により、日本が中国の内戦に引き込まれていったことをみました。この项では、中国における日本の军队の行动について、もう少しみてみましょう。前一篇“中国所谓正确历史认识的真面目”中(注:该网站有一系列关于日本近现代史的文章),我们看到中国政治家按照“以夷制夷“的思想,把日本拖入了中国的内战。这一篇中,我们来稍微看看在中国日本军队的行为吧。
中国民众を虫けらのように杀した中国军将中国民众形同草芥般杀戮的中国军队 中国军と、日本军の间には、大きな质的差异がありました。それは、中国军は同胞である中国民众を行く先々で强夺し、また大量杀害したのに対し、日本军は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。 中国では伝统的に、民众とは、戦乱で虫けらのように杀される存在であり、少なくとも権力者から爱护を受ける対象とはなっていませんでした。梁启超は、中国の民众を「戮民」(りくみん 杀戮される民)と呼んでいます。 たとえば、「国共合作」により共产军と组んで日本との戦いを始めた蒋介石の军队は、一九三八年、日本军の进撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。中国军队与日本军队有很大本质的不同。那就是,中国军队所到之处,对身为同胞的中国民众大量抢劫、杀戮。与此对比,日本军队所到之处则试图拯救他们。传统上,中国的民众在战乱中就是如虫蚁般被屠杀的存在。至少没有成为当权者爱护的对象。梁启超曾把中国民众成为“戮民“(被杀戮的民众)。比如说,由于“国共合作”而与GCD军队联手,开始和日本作战的蒋介石军队。1938年,为了阻挡日军进击的路线而将黄河的堤坝爆破了。这时由于同时还下起大雨,有11座城市、4000个村庄被水淹,酿成了溺死者100万其他受害者600万人的大惨剧。
 しかも、それだけでは终わりませんでした。この人为的水害の结果、黄河の水路が変わり、周辺に大饥馑が広がったのです。そして、被灾地で食粮不足に悩んだ中国军部队は、民众から食粮の强夺を始めたため、饥馑はさらに深刻化しました。その惨状をみた当时のアメリカ人记者は、 「道ばたには冻死者と饿死者があふれ、饥えた人々は尸肉を食べていた」 と报じています。中国侧はまた、事件直后から、堤防决壊を日本军のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国侧のこの自作自演は、のちに外国人记者に见破られています。 この堤防决壊のとき、日本军兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量杀戮しただけで终わったのです。而且这还没有结束。由于这个人为的水灾,黄河的河道发生变化,大规模的饥荒扩散到了周边地区。于是在受灾地困于粮食不足的中国军队,开始从民众手中强夺粮食,更加剧了饥荒。关于当时的惨状美国记者曾报道道:“路边堆满了冻死和饿死的人,饥饿的人们吃起了尸体。”中国方面从事件刚一发生,就把决堤当成日军所为来宣传。然而中国这种自作自演却被外国人记者看破了。这次决堤之中,日本士兵无一人死亡。结果只不过以大量杀戮中国人而告终。
 堤防决壊の直后、日本军は堤防の修复作业を行なっただけでなく、被灾した民众の救助と、防疫作业を行ないました。日本军は、中国军から虫けらのように扱われた中国民众を、必死になって救済したのです。 こうした中国军の性格は、蒋の军だけでなく、老毛のGCDでも同様でした。いや、GCDはもっとひどいものでした。gcdは、民众から「gongfei」(きょうひ)すなわち共产主义のfei贼と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民众に略夺、杀人、强奸を働いたからです。 中国の军队は、gcdでも国民党军でも、基本的に军队というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが军队に入ったのは、占领地区で略夺が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。 ですから中国の司令官は、ある土地を占领すると、最低一周间は兵士たちの好きなように略夺や强奸をさせました。また、そうしないと司令官が杀されてしまったからです。决堤之后,日本不但立刻实施了堤坝的修复工作,还进行了对民众的救助和防疫作业。对于中国军队如草芥般对待的中国民众,日本军队拼命进行了救助。中国军队这种风格,不光是蒋军队,毛ye是一样。不,gcd更加残忍过分。共军曾经被民众称为“gongfei”。那是因为他们所到之处就对民众掠夺、杀人、强奸。中国军队不管是GCD还是gmd,基本上都不能称为军队,不过是地痞流氓集合起来的乌合之众罢了。他们参加军队就是为了在占领区掠夺,从不会放过机会。因此中国的指挥官只要占领了某处,至少会有一周时间让士兵尽情掠夺和强奸。因为不这样做的指挥官曾被杀掉过。
 日中戦争における戦闘は、たいていの场合、日本军が攻めると中国军が撤退し败走する、という形で进みました。ですから、激戦地を除けば、中国侧が宣伝するほど日本军に杀された中国兵の死者は多くはありませんでした。 むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を杀したものでした。中国の军队というのは、兵士たちの后ろに「督戦队」(とくせんたい)がいたのです。督戦队とは、后ろで「敌を杀せ、杀せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち杀す中国兵です。 つまり中国兵が中国兵を杀したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争时の死伤者は、日本军によって杀された中国兵よりも、そうやって督戦队に杀された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。 また、中国兵は负伤すると、置き去りにされました。ある戦场で、中国兵の一団が堑壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発见した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の锁がつけられていたからです。 日本军と中国军とでは、质の上でそれほどの差があったのです。日中战争的战斗,大部分情况都是日军一进攻中国军队就败走,以这样的形式进行的。因此除了发生激战的战场以外,被日本军队杀死的中国士兵并没有像中国宣传的那样多。倒不如说很多中国士兵的死亡都是中国人杀中国人造成的。凡中国军队其士兵后方都有“督战队”。所谓督战队,就是在后面叫喊“杀敌!杀啊!”让士兵作战,如果逃跑的士兵则立刻击杀。也就是说中国兵杀了中国兵。据中国历史学家黄文雄研究,日中战争的死伤者中,被督战队杀死的中国士兵要多于被日军杀死的。而且中国士兵一旦负伤,就会被抛弃掉。曾经在某个战场上一批中国士兵在堑壕中战死,据说发现了他们的日本兵却忍不住流泪。因为在他们的脚上,都带着防止逃跑的铁链子。日本军队和中国军队,在质量上就是有这样大的差别。
道端に打ち倒されていた孙文の铜像に青天白日旗をかけてあげる日本兵。中国の伝统文化への尊敬心から出た行为である。现地市民の间でも、日本军は、シナ军よりもよっぽど信用できるとの评価を得ていた。正在给路边被推倒的孙中山铜像盖上青天白日旗的日本士兵。这是出于对中国传统文化尊敬的行为。在当地市民之中,日本军获得了比支那军远值得信赖的评价。
这篇文章太长了分段发出来吧!还是被和谐啊
加油,我是愤青。
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共栄圏をつくろうとした日 一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の华北と、华中の一部を支配下におき、その统治を亲日政権である汪兆铭(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。龙腾网  日中戦争は八年间続いたと一般にいわれますが、実际には日中の戦闘は一年半あまりで终结し、あとは日本军はそれ以上领地を広げようとせず、占领地域でのインフラ建设や、経済建设に集中したのです。 その支配地域では、経済、财政、物価、治安が安定し、民众の生活は他と比べると天国と地狱ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物资の移动が容易になりました。よく「日本军は一方的に略夺と破壊をした」かのように语られることがありますが、実际は全く逆だったのです。 だからこそ、汪兆铭の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。 汪兆铭の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を讴歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画馆はどこも満员という活况を呈していました。 ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に设けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。日中战争于1937年开始,到1940年时日本已经将中国华北和华中置于控制下,其统治则委任给亲日政权的汪兆铭南京政府。一般都说日中战争持续了八年,但实际上日中间的战斗只持续了一年半多就结束了。在那之后日军并没有继续扩张领地,而是集中精力于占领区的基础设施和经济建设。在这些地区,经济、财政、物价、治安都很安定,民众生活与其他相比有天壤之别。由于建设了铁路,人和物的流动也变得容易。常常有什么“日军纯粹只是进行了掠夺和破坏”的说法,实际情况则是完全相反的。正因为是这样,才会有像汪兆铭南京政府及其追随者在内的大量中国人支持日本,与日本一起为了地区发展而努力。汪兆铭南京政府控制的区域中,和平和繁荣超过战前而被称颂,其象征就是上海。即使在日中战争时期,舞厅也好电影院也好到处都是人满为患的盛况。从俄罗斯逃出的犹太人聚集地也设在上海,他们在那里安全地生活。 一方、蒋や毛が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの军队が入ってきたので食粮が不足したばかりか、略夺、榨取が横行したため、たちまち住民は地狱の生活へと転落したのです。 もっとも蒋は、日本人のような规律ある生活习惯を目指した「新生活运动」を実施し、中国兵の乱れた规律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を结ぶことはできませんでした。 日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重庆にいる蒋介石军に様々な物资を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食粮などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重庆まで届いた物资は多くても当初の何分の一かに减っていました。 それらの地域を支配する匪贼や、他の武装势力に、通行料として一部物资を渡していたからです。当时、日本の支配地域以外の中国大陆には、匪贼が约二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国军の约一〇倍に相当します。彼らは略夺で生计をたてていたのです。另一方面,蒋和老毛控制的地区则很悲惨。本来就由于军队进入而粮食不足,再加上掠夺和榨取横行,人们的生活很快就坠落如地狱一样。当然蒋也以日本人那样的良好生活习惯为目标,实施了“新生活运动”,努力纠正中国士兵的乱纪。然而却一直没能取得什么成果。日中战争中,美国通过所谓的“援蒋路线”,对重庆的蒋军队运送了各种物资,这件事广为人知。然而这些武器、弹药、医疗品和粮食,在越过高山跨过河流抵达重庆的时候,不知不觉地就减为原来的几分之一了。那是因为对控制各个地区的土匪还有各种武装势力,要交付一些物资作为过路费。当时除了日本控制区以外的中国大陆,据说共有约2000万人的土匪。这相当于中国军队的十倍之多。他们都是靠掠夺维持生计的。 また无事に重庆に届いた物资も、国民党干部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当时の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。 このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民众の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を积んでいたからです。 しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で败戦を迎えたことにより、挫折しました。 そのとき、日本は中国につくった工场や施设、インフラなどを破壊することなく、すべて正确な资产リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦后の中国経済の発展の基础となったものです。 日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党军と共产军の内戦が勃発しました。これは実质的に、日本が残した遗产の夺い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。 またこの国共内戦に共产军が胜利し、中国を统一したとき、GCDはかつて自分たちがなした中国民众への杀戮、略夺、榨取などを、すべて日本军の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。 以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント志」に掲载したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世间で言われていることと何と违うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手纸をくれたのですが、こう书いていました。  「先生は中国に関し真実を书いています。がんばってください」 中国人も、知っている人は知っているのです。顺利抵达重庆的物资也中饱了gmd官员的私囊,而没有让更多人获得。当时的蒋政府就是这样以完全靠美援维生而闻名的。日本占领区和非占领区的中国民众的生活就是有如此大的差距。日本从日中战争时期开始,就已经为了让中国能作为现代民主国家自立,从而和亚洲的同胞互相提携建立共荣圈,而不断付诸了大量的努力。然而这个愿望,由于不久日本败于日美战争而挫折了。这时,日本并没有破坏在中国建设的工厂、设备和基础设施,而是全都准确地列入统计,为了中国的未来而秋毫无犯地留下了。这些后来成为了战后中国经济发展的基础。日本离开以后,中国又发生了“内战”。这场战争本质上其实是对日本留下的遗产的争夺。而且死于这场内战的人数,比日中战争还多。然后共军在这场国共内战中获胜,统一中国的之后,GCD又把自己过去犯下的对中国民众的杀戮、掠夺和榨取等等,全部宣传为日军的恶行,开始这样对年轻人进行教育。我以前在“Lemonade杂志”刊登这些中国历史的文章时,有个日本人说道,“原来还有过这种事情啊之前都不知道。这与平时大家所知道的是多么不同啊。”然而,我还收到过某位在日本留学的中国基督徒写来的信,内容是这样的。“先生您写下了关于中国的真相。请好好加油。”所以说中国也是有明白人的。
「中国无名戦士の墓」と书いた墓标の前で、慰霊祭を行なう日本兵(1938年)。日本军は戦闘が终わると敌味方の区别なく、戦闘地にお墓を作ってきた。中国の文化にはこのようなものはない。在“中国无名战士墓”的墓碑前,进行慰灵祭的日本士兵(1938年)日本军队在战斗结束后不分敌我都设立了墓碑。中国文化中则没有这种意识。
“南京大屠杀”是没有的龙腾网  今まで见てきたように、日本军の进出は内戦の终结、平和の确立、共栄圏の建设を目的としたものであって、决して破壊や虐杀を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民众の杀戮を平気で行なっていた中国军とは、きわめて対照的です。 日本には、もともとサムライの时代から、民众の虐杀や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は无伤でした。武汉三镇も无伤のまま。他の都市も全部无伤です。日本军は、都市を破壊する気も、住民を虐杀する気もさらさらなかったのです。 日本军は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保证するということです。歴史ある都市を戦场にし破壊していけないからです。就如到目前为止我们所看到的,日军的进出是以终结内战、确立和平、建设共荣圈为目的,决不是为了破坏和屠杀。这与随意地把国土焦土化和杀戮民众的中国军队形成了鲜明的对照。在日本,本来从武士时代开始,就没有屠杀民众或是焦土化的思想。日中战争是从北京附近开始的,然而北京却毫发无伤。武汉三镇也没有损伤,其他的城市全都没有。日本军队,从来就没有过破坏城市,屠杀居民的打算。日军接近城市时从来都会发布自由都市宣言(OpenCity)。意思是如果投降的话,既不会破坏城市,也会保证居民的安全。这是因为将拥有历史的城市变成战场而破坏这种行为是不对的。
 日本军は圧倒的に强かったので、たいていの都市では、中国军はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国军は珍しく若干の抵抗をみせました。 南京防卫军司令官の唐生智が「俺に顽张らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「顽张れ」と言ったのです。彼が最后まで顽张れば、ある程度、中国军の统制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。 司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵队を后ろから撃つ「督戦队」に杀されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦队に杀されるし、残れば日本军に捕まるということで、民间人を杀し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。 こうした民间人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって杀されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本军による住民の大量虐杀というようなことは决してなかったのです。由于日军压倒性地强悍,在大部分都市中国军队都没有抵抗而直接弃城逃跑了。然而在南京,中国军队罕见地进行了若干抵抗。因为南京防卫军司令官唐生智说“请让我努力一下吧”,蒋介石便回答道“那就加油吧。”如果他能努力到最后的话,中国军队也许能够保持某种程度的组织吧。然而这位司令官如此没用,在中途就逃跑了。失去司令官的中国士兵自己也开始逃跑。然而他们很多人都被从后方击杀己方逃兵的“督战队”所杀。而中国军队也有人觉得逃跑会被督战队杀,留下来则被日军抓,于是便杀死平民剥下衣服自己穿上。就这样化装为平民的中国士兵,露馅以后被日本兵杀掉的情况也是有的。虽然是有这样的事请,但在南京日军大量屠杀居民的事情,是绝对没有的。
日本军による南京占领5日目の写真(朝日新闻)(右)武器も持たず中国人から买い物をする日本兵。(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人农民。(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。(左)中华街の名物、街头床屋。子どもも大人も手制の日の丸の腕章をして笑っている。  「南京大虐杀」がなかったことを如実に示す证拠写真である。日军占领南京后第五天的照片(朝日新闻)(右)都没有持有武器而从中国人处买东西的日本兵。(中上)回到南京种田地的中国农民。(中下)回到恢复平静的南京的中国人们。(左)中华街道上的有名景象,街头的剃头挑子。孩子和大人都带着手工制作的日本国旗的肩章欢笑着。这是如实显示出并没有“南京大屠杀”的证据照片。
 中国は、かつて日本军は南京で三〇万人の住民を虐杀したと、宣伝しています。しかし、これは中国共产党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐杀があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずです。けれどもそのようなことはありませんでした。 また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は约二〇万人でした。これはいろいろな调査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐杀するのは不可能です。 また、日本が南京を占领したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月后には人口二五万人になっています。これは南京学会が致密に调査して出した、信頼できる数字です。また大虐杀が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。 また南京大虐杀の「证拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関系のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。东中野修道著『南京事件「证拠写真」を検证する』などに、详しく书かれています。中国一直在宣传说日军在南京屠杀了三十万居民。然而那不过是中国GCD编造的谎言而已。因为如果真有南京大屠杀的话,在南京安全地区的外国人肯定会将此事向全世界流传的。可是却并没有发生这样的事情。而且,日本进入南京之前南京的人口为约二十万人。这是经过各种各样的调查都一致认定的数字。在二十万人的城市屠杀三十万人是不可能的。然后,日本占领南京以后,逃跑的市民陆续返回,一个月后人口达到了二十五万人。这是由南京学会缜密地调查后得出的值得信赖的数字。如果城市发生过大屠杀的话,市民是不会回去的。再次,南京大屠杀所谓的“证据照片”到今天已经全部弄清,都是完全无关的照片或者是捏造的。东中野修道所著的《南京事件“证据照片”的考证》一书中,有详细记载。
 何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英语で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで约五〇万部も売りました。これは日本军が南京で三〇万人虐杀という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。 しかしそののち、彼女が书いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判书によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自杀しています。 その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその记事の中で、彼女は自分が书いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐杀はなかった」と主张している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。 また、南京攻略の司令官だった松井石根大将には、こんなエピソードも残っています。南京攻略戦の最中、焼け迹から赤子の泣き声が闻こえてきました。彼は秘书の冈田尚に「捜して来い」と命じました。 救助された赤子を、松井大将は温泉に入れ、毛布にくるむと、自分の目を细めて抱き上げました。彼は、松井の一字をとって松子と命名してかわいがり、ミルクを饮ませて育てました。南京の入城时には、冈田秘书がこの赤子を背负って入城しました。几年前,华裔美国人张纯如用英语写了一本叫做《The Rape of Nanking》的书,在美国卖出了约五十万本(硬皮本)。这是一本宣传日军在南京有屠杀三十万人暴行的书,是为了在美国人中散播谎言。然而之后很多批评的书籍指出,她写的内容还有使用的照片都实在令人怀疑。在这样的情况下,她于2004年年末持枪自尽了。其理由据“London Economist”在报道中介绍,她因为自己写的内容被批评为实在可疑,反而造成对主张“南京屠杀不存在”的人有利的局面。据推测她也许是无法接受这一点。还有,负责攻占南京的司令官松井石根大将曾留下这样的轶事。在南京攻城战战斗正酣时,突然从烧焦的废墟中听到婴儿的哭声。于是他命令秘书冈田尚“去找找看”。松井大将把救来的孩子用温泉洗净用毛巾裹好,慈祥地抱起来端详。他取了松井的一个字将其命名为松子,一直怜爱并用牛奶养育。南京入城时,冈田秘书就是背着这个孩子入城的。
満州は中国の领土ではない满洲不是中国的领土龙腾网  つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鲜半岛の北隣、现在の中国人が「中国东北部」と呼ぶ地です。 満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。清朝は満州族がつくった王朝であって、汉族は被支配民族だったのです。 中国で「义和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占领し、そこに居すわってしまいました。満州にロシアが居すわることは日本にとっても胁威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。 日本は日露戦争に胜利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。ジョンストン(満州国皇帝となった溥仪の家庭教师)の书いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが详しく书かれています。接下来我们来看看满洲吧,就是位于朝鲜半岛以北,现在的中国人称为“中国东北”的地方。所谓的满洲,本来是在中国建立清朝的满族(女真族)的故乡。清朝是满族建立的王朝,汉族则是被统治民族。中国于1900年发生“义和团之乱”(北清事变)的时候,俄罗斯浑水摸鱼,非法占领了满洲并且拒不离开。留在满洲的俄罗斯对日本是相当的威胁,所以为了赶走俄罗斯进行了日俄战争。日本在日俄战争中获胜,将俄罗斯从满洲赶走的同时,就将满洲还给了清朝。Johnston(后来成为满洲国皇帝的溥仪的家庭教师)所著的《紫禁城的黄昏》一书中,详细介绍了日本为清朝取回满洲的事情。
 日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、辽东半岛の租借権を获得します。それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。 しかし、満州は当时、盗贼の跋扈する无法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。そのため国际条约のもと、権益を守るために日本の「関东军」がそこに驻留していました。今日でいう平和维持军、守备军です。 この満州には、张作霖の一家が统治者として支配していました。関东军は当初、この统治者と共同路线を歩もうとします。しかし张は、盗贼あがりの暴君で、満州の民众にすさまじいばかりの榨取を行なっていました。盗贼がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、 「张作霖一家が三千万民众から榨取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敌するものであった」日本于这个时候获得了在满洲的铁路权利和辽东半岛的租借权。那是对于日本取回满洲,清朝所表达的一种谢意。然而,当时的满洲是土匪盗贼跋扈的无法治地带,比今天的伊拉克治安还要差。因此基于国际条约,日本为了保护权益而在当地驻屯了“关东军”,也就是今天所说的维持和平部队,守卫部队。此时的满洲被张作霖的一家统治着。关东军一开始打算和这位统治者走合作路线。然而张作霖是一个从土匪发家的暴君,对满洲的民众实行了严酷的压榨。土匪头子就那样成为了统治着。据G.B.Ray所述,“张作霖一家从三千万民众榨取的收入,就算不比南京政府的收入更多也是差不多的。”
 と书いています。さらに张の亲子は、条约を无视して満州の経済権益を日本から夺い取ろうとするなど、露骨な背信行为に出てきました。それを目の当たりにした関东军は、军事行动を起こし、张の军队を満州から駆逐します。 これが満州事変です。これは日本军の武力侵略の第一歩であると语られていますが、実际のところ当时、日本军による张の军队の駆逐をみた満州全土の民众は、大喝采を叫び、日本に感谢したのです。なぜなら张の军阀政権は、 「军费を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民众の膏血の七、八割は军费に充てられ、商民の三割はついに破产した」 と言われたほど、ひどい榨取を行なっていたからでした。而且张的儿子无视条约,试图从日本夺取满洲的经济权益,开始种种明显的背信行为。有鉴于此,关东军发动军事行动,将张的军队从满洲驱逐了。这就是满洲事变。这被称为日军武力侵略的第一步,然而实际上当时整个满洲的民众看到日军赶走张的军队,都大声喝彩感谢日本来着。其原因就在于张的军阀政权实行了残酷的压榨,“为了筹措军费让广阔肥沃的满洲土地荒芜,民脂民膏的七八成都被充作军费,商人有三成不得不破产。”
 当时の诸外国の反応も、日本の行动はやむを得なかったとしました。アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、张の行动は中国国民党政府が仕挂けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』灾いだ述べました。アメリカの新闻记者、ウォルター・リップマンも、 「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国际的基准からすればきわめて忍耐强かった」 と记述しています。当时のイギリス陆军の元师も、 「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共产主义の侵略に対する真の防壁となる」 と述べました。当时各国的反应,也都表示日本是不得已而为之。美国公使John.V.A.Macquarie曾陈述道张的行动是中国国民党政府所怂恿,整个事件是他们“自己招来的”灾祸。美国报纸记者Walter Lippmann也记述道,“日本面对着严重的挑衅,其忍耐力以一般的国际标准来看是极强的。”当时的英国陆军元帅也说道,“他们(日本”一直受到了严重的挑衅……他们如果能在满洲站住脚,那将成为对共产主义侵略真正的防壁。”
 さて、そののちこの満州の地に、日本の指导によって「満州国」がつくられました。満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥仪です。 清朝が灭亡したとき、日本の公使観に溥仪が逃げてきたのです。清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。溥仪は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。 それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遗臣でした。日本はその建国を指导したわけです。満州国はまだひとり立ちできる状态ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。此后,在这片满洲之地在日本的指导下建立起了“满洲国”。成为皇帝的,就是清朝末代帝王溥仪。清朝灭亡的时候,溥仪逃到了日本公使馆。所谓清朝,是满洲人统治中国的王朝。所以满洲是统治清朝的皇帝的故乡。也就是说,溥仪想回到自己的故乡,在那里建立国家。而日本则在这样的期望下于满洲建立了满洲国。在满洲国,不但皇帝是满人,大臣也一个不落全都是满人或者是清朝旧臣。日本对建国进行了指导而已。由于满洲国还不能独立自主,日本对建国给与了支持。
算了本来打算分两章发的比较多人看,没什么人看就一贴发完它吧
すばらしい国造りが进んだ。满洲国首都 新京实现了了不起的国家建设 中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の领土への侵略だった」と非难します。しかし実际のところ、かつて満州の地が中国の领土だったことは一度もありません。なぜなら、満州は万里の长城の外侧(関外)の地なのです。 かつて清朝打倒の革命运动を主导した孙文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。孙文にとって、満州は中国ではなかったからです。蒋介石も、「満州は中国の领土ではない」 と公言していた时期があります。ところがその后、蒋介石の政府も、毛の中国gcdも、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の领土だ」と言い出しました。しかし、まったく厚颜无耻と言わざるを得ません。満州が中国の领土である根拠など、どこにもないのです。中国对这个日本带来的满洲国建国,谴责为“对中国领土的侵略”。然而实际上,在过去满洲成为中国领土的事情从来没有过一次。为什么这么说,因为满洲是在万里长城的外侧(关外)之地。曾经主导推翻清朝革命运动的孙文的构想中也不包含满洲。因为对孙文来说满洲不是中国。蒋也曾有一段时期公开宣称“满洲bushi中国的领土。”然而后来不管是蒋介石政府,还是毛的中国GCD,在看到满洲的经济发展后都态度一变,开始说“满洲是中国的领土”。可这真只能说是厚颜无耻。说满洲是中国领土的根据,根本就不存在。
 「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の领土ではないのか」 というかたもいるかもしれません。しかし、たとえば元の时代に、中国はモンゴルに支配されました。では、モンゴルは中国の领土かというと、そうではないでしょう。 また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。ではオランダは、インドネシアの领土かというと、そんなことは暴论ということになるでしょう。同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の领土ではないのです。也许会有人说,“如果满洲是清朝皇帝的故乡的话,那满洲也还是中国领土不是吗?”然而,比如说元朝时候,中国被蒙古统治。那么蒙古是中国领土吗,也并不是吧。而且,过去荷兰曾经统治过印尼。那么荷兰也是印尼的领土吗,这简直成了胡言乱语了。所以同样的,满洲虽然是统治清朝的满人故乡,却并不是中国领土。
没人没动力啊买房兽也出来捧个场啊
你来啦乖儿子
奇迹之国・满洲国 清朝が灭びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。満州国は、わずか一三年间の王国でしたが、世界史上、奇迹の国でした。 そこには建国以降、年间一〇〇万人を超える人々がなだれこみました。人々は中国内地の略夺、虐杀、贫穷に満ちた生活を舍て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。 一九三二年の建国时に约三〇〇〇万人だった満州の人口は、终戦时の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。现在の日本の人口の约半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当时の満州が略夺と虐杀の地狱だったなら、绝対にこのような现象はみられなかったはずです。清朝灭亡后,满人皇帝在满洲建立自己的国家是极为合理的事情。满洲国虽然是只有十三年历史的国家,却是在世界史上的奇迹之国。其建国以后,每年有超过一百万人涌入。人们舍弃在中国内地充满了掠夺、屠杀和贫穷的生活,向往着这个和平桃源乡移民而来。1932年建国时拥有约3000万的满洲人口,在终战的1945年时已经增长到4500万人以上。相当于现在日本人口大约一半的人民在那里生活。如果像今天中国人所说的,当时的满洲是掠夺和屠杀的地狱的话,这样的现象应该是绝对看不到的。
 満州国では「五族协和」をかかげていました。いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと竞ってやって来ました。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期间のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工业国家として成长したのです。しかし、 「五族协和といっても、実际は日本が指导した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」 という批判もあるでしょう。けれども、これは満州国がひとり立ちする时までは、やむを得ないことでした。なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。 そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。そして実际、満州国には、様々な民族が年间一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。在满洲国实行的是“五族协和”。来自各个民族的人们,憧憬于满洲国的和平和繁荣,自己也想分享因而竞相到来。靠着他们的努力,原来什么都没有的原始之地在很短的时间内,就成长为现代的法治国家、和平国家和一大重工业国家。然而也有批评说“说是五族协和,其实还是日本指挥的国家,其中枢部不都是日本人占据的吗?”不过这是在满洲国无法自立的时候不得已的做法。毕竟除了日本人之外大多数人都不识字,没有接受过教育,甚至连国家的理念都不能理解。在这样的情况下,日本的领导责任是被众人所要求的。实际上满洲国每年有一百万以上的人涌入,大家共同努力建设国家的。
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